編集室



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△元日の朝早々、一休禪師は墓場から拾つてきたしやれからべを、祝酒にどよめく京の家々の門口からさし出して「御用心々々々」と言ひ廻つた。その無作法を咎めた人に向つて「目が出て穴ばかり残つたしやれかうべ程目出度いものはない」と答えたと、「一休咄」が博えてゐる。


△眞偽の程はもとよりわからぬが格外の禪師は、或はこんな方法でうかうかと暮す世の人を警められたのかも知れない。人は一度は死なねばならぬ。平常からその覺悟ができて、眞に生死に妨げられぬ境地に到つてこそ、文字通りメデタシといはれよう。


△釋尊は菩提樹下に悟りを開いて佛と成られた時に、已に生死を超えて、不生不滅の永遠生命を得られた。即ちネハン(涅槃・寂締) の境涯に入られたのである。然し佛といへども肉身をもつ以上、その制約を受けねばならぬ。クシナガラのサラ林で八十才で息を引きとられた時、こ々に肉體からも解脱されることになつた。之をハツネハンといふ。心身共に完全にネハンに入り給ふ意味である。


△釈尊は、その入減に當つて次のように弟子等に教えられました。「汝等おのおの、自らを燈火とし、法を燈火とせよ」

「今我が入滅は、肉身の死なのである。佛は肉身でない。覺の智慧である。我が肉身を見る者が眞實に佛を見る者でなく能く法を見る者が我を見る者であり、我を見る者は能く法を見る者である」。


△釋尊をして佛たらしめたものは覺の智慧であり、宇宙を貫く理法である。まことの佛とは、この法(眞理)の體得者を指す。この法は又元來人々が豊に所有し、白隠禪師も「衆生本來佛なり」と示されたものです。禪の修行は釋尊と同じ體験を以てこの法を見ようとするのです。


△然し法は元來宇宙にみちくてゐる。一言半句の上にも見る人によつてその全貌を知ることを得よう。混沌たる世相の中に、ともすれば流され勝ちの自己の上にしい「法の光」を受けて内なる佛腿を開かうではないか。


△このたび臨濟會を母體として生れた本紙は、こんないわれで、爭末期迄月刊した雑誌「法光」の名を繼ぐことゝなりました。御覧の通りのタプロイド版、年四回刊行の豫定、到底舊時を偲ぶこともできませんが、脅ての聲名を汚さぬよう努力するつもりです。


△近藤師が妙心僧堂に師家として轉ぜられた今日、臨済録の松尾師に東都の禪界は期待することが多い。諏訪師の原稿は講習會講演の一部を編者がやや通俗的にまとめたもの、意の盡さぬ點は切に先生の宥恕を乞ふ。佐藤先生の「牟月集」は先般お目にかかつた際頂戴したもの、熟讀深く法味に浴されんことを念願しここに厚く先生の御温情に感謝いたします。


△本紙が、まことに正法の光を輝かし得るよう、讀者皆様の御後援を切望し、併せて御投稿を歓迎します。次号は三月の豫定です。


(山本記)